7日だけの嘘で妻と娘は俺を永遠に失う

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7日だけの嘘で妻と娘は俺を永遠に失う

GoodNovel 完結

藤崎怜奈(ふじさき れな)と結婚して7年目。高瀬直樹(たかせ なおき)は、娘の高瀬芽依(たかせ めい)が無邪気に尋ねるのを耳にした。 「ママ、どうして拓海お兄ちゃんがパパじゃだめなの?」 直樹は耳を疑った。 拓海お兄ちゃん――成瀬拓海(なるせ たくみ)のことか。怜奈の初恋の相手? 聞き間違いかと声をかけようとした、そのときだった。1台の車が、娘に向かって突っ込んできた。 考えるより先に体が動いた。直樹は駆け寄り、芽依を突き飛ばした。 鈍い衝撃とともに、意識が途切れた。 目を覚ますと、病床のそばに妻と娘がいた。2人とも無事だ。それが分かり、ほっと息をついた。 自分は大丈夫だと声をかけようとした途端、事故の直前に聞いた娘の言葉がよみがえった。 なぜか、確かめずにはいられなかった。直樹は戸惑ったふりをして、2人を見上げた。 「すみません。何も思い出せないんですが……」 2人は一瞬顔を見合わせ、すぐにナースコールを押した。 検査を終えた医師は、こう説明した。 「事故で頭の中に出血が見られます。その影響で、一時的に記憶を失っているのでしょう」 医師が立ち去ってからも、直樹は困惑した表情を崩さなかった。 「どうして事故に遭ったんですか?あなたたちは……俺と、どういう関係なんですか?」 怜奈が眉を寄せ、何か言おうとした。その前に、弾んだ子どもの声が響いた。 「うちのボディーガードだよ!」

チャプター (1)

第1話

藤崎怜奈(ふじさき れな)と結婚して7年目。高瀬直樹(たかせ なおき)は、娘の高瀬芽依(たかせ めい)が無邪気に尋ねるのを耳にした。 「ママ、どうして拓海お兄ちゃんがパパじゃだめなの?」 直樹は耳を疑った。 拓海お兄ちゃん――成瀬拓海(なるせ たくみ)のことか。怜奈の初恋の相手? 聞き間違いかと声をかけようとした、そのときだった。1台の車が、娘に向かって突っ込んできた。 考えるより先に体が動いた。直樹は駆け寄り、芽依を突き飛ばした。 鈍い衝撃とともに、意識が途切れた。 目を覚ますと、病床のそばに妻と娘がいた。2人とも無事だ。それが分かり、ほっと息をついた。 自分は大丈夫だと声をかけようとした途端、事故の直前に聞いた娘の言葉がよみがえった。 なぜか、確かめずにはいられなかった。直樹は戸惑ったふりをして、2人を見上げた。 「すみません。何も思い出せないんですが……」 2人は一瞬顔を見合わせ、すぐにナースコールを押した。 検査を終えた医師は、こう説明した。 「事故で頭の中に出血が見られます。その影響で、一時的に記憶を失っているのでしょう」 医師が立ち去ってからも、直樹は困惑した表情を崩さなかった。 「どうして事故に遭ったんですか?あなたたちは……俺と、どういう関係なんですか?」 怜奈が眉を寄せ、何か言おうとした。その前に、弾んだ子どもの声が響いた。 「うちのボディーガードだよ!」 第1話 言いかけた言葉が、喉で止まった。 直樹は、5年間育ててきた娘を見つめた。聞き返す声がかすれた。 「ボディー……ガード?」 「そうだよ。だからママと一緒に、お見舞いに来てるんでしょ?」 芽依は迷いもなく答えた。 直樹は黙ったまま、娘の顔を見つめた。冗談だと言ってほしかった。 今にもベッドに駆け寄ってきて手を握り、「うそだって分かってたから、合わせてあげたんだよ」と笑うのではないか。 だが、芽依の表情は真剣そのものだった。怜奈の袖を引き、もっともらしく続けた。 「ママ、高瀬さんは私を助けてけがしたんだよ。ボーナス、いっぱいあげてね」 何を聞かされているのか、理解できなかった。 命を懸けて守った娘にとって、自分はボディーガードでしかないのか。 では、父親には誰を選ぶつもりなのか。拓海なのか。 胸の奥が鋭く痛んだ。こみ上げる問いをのみ込むために、直樹は拳を握りしめた。 それから、ずっと黙っている怜奈に目を向けた。 娘だけでなく、7年連れ添った妻の心にも、自分の居場所はあるのか。それを知りたかった。 目が合うと、怜奈はわずかにためらった。だが何も言わず、芽依を病室の外へ連れ出した。 胸の内が、ゆっくりと冷えていった。 否定しなかった。それが答えだった。 直樹は全身の痛みをこらえてベッドを下り、病室のドアにもたれた。 小窓の向こうで、怜奈が芽依の前にしゃがんだ。怒りを抑えた声が聞こえた。 「芽依、どうしてパパをボディーガードだなんて言ったの?」 芽依は不満そうに口をとがらせた。 「拓海お兄ちゃんにパパになってほしいんだもん。一緒にいると楽しいし。パパはだめって言ってばっかりで、嫌なの。それに拓海お兄ちゃんは絵がすごく上手なんだよ。パパなんて、ずっと家にいるだけで何もできないじゃん」 娘の口からはっきり聞かされ、直樹の膝から力が抜けた。ドアにもたれたまま、その場に座り込んだ。 やはり、聞き間違いではなかった。 芽依は、自分の父親をボディーガードに追いやってでも、拓海を父親にしたいのだ。 拓海の名を聞くと、怜奈の声から怒気が薄れた。それでも厳しい顔は崩さなかった。 「だからって、うそをついていいわけじゃないでしょう」 「でも、パパは自分が誰かも分からないんだよ?お願い、ママ。拓海お兄ちゃんも、私のパパになりたいって言ってたもん。やっとパパになってもらえるんだよ。 ママもお願い、合わせてよ。ママだって、拓海お兄ちゃんといると楽しそうじゃん。みんなうれしいんだから、いいでしょ?パパが忘れてる間だけだし、平気だよ」 芽依は怜奈の手を握ってせがんだ。 怜奈は明らかに心を動かされていた。しばらく迷った末、うなずいた。 「……分かった。ただし、1週間だけよ。記憶が戻っても戻らなくても、1週間たったらおしまい。拓海お兄ちゃんは、もうパパにはなれないからね」 許しが出ると、芽依は飛び跳ねて喜んだ。 「やった!早く拓海お兄ちゃんに教えてあげよう!」 怜奈の手を引き、はしゃぎながら去っていった。 事故に遭ったばかりの直樹は、すっかり置き去りにされた。 足音が遠ざかっていった。直樹はふっと笑った。涙が頬を伝い、床に落ちた。 たった一言、試しただけで、妻と娘の本音を知ってしまった。 7年連れ添った妻にも、5年間大切に育ててきた娘にも、自分は必要とされていなかった。 幸せな家族だと思っていたのは、自分だけだった。 不意に、電話が鳴った。 医薬研究センターからだった。 「直樹くん、考えてくれたか。今度のプロジェクトに参加する気はないか」 待ち受けにしている親子3人の写真を見た。その目には、もう何の期待もなかった。 「先生、参加させてください」 病室に響いた声はかすれていたが、迷いはなかった。 「ただ、始まる前に、俺の居場所につながる情報をすべて伏せてほしいんです」 第2話 電話の向こうで、恩師の石田先生が驚いたように息をのんだ。 「それでは、奥さんにも娘さんにも居場所を知らせられなくなるぞ。2人のために、これまで断っていたんじゃないのか。何があった」 直樹はスマホを握り直した。これまでの日々が、否応なくよみがえった。 怜奈も芽依も知らない。直樹は、何の取りえもなく家にいるだけの男ではなかった。 7年前、直樹は瑞峰大学の薬学系博士課程に在籍し、当時最年少の院生だった。研究の才に恵まれ、寝ても覚めても実験のことばかり考えていた。 ある日、いつものように徹夜の実験を終え、ふらつく足で川沿いを歩いていた。疲労で目の前が暗くなり、川の方へ倒れ込んだ。 周囲から悲鳴が上がった。腕を強くつかまれた感触を最後に、意識を失った。 目覚めたときには病院にいた。隣の処置台では、全身に擦り傷を負った怜奈が手当てを受けていた。 看護師の話で、直樹はようやく事情を知った。転落しかけた自分を、怜奈がとっさにつかんでくれたのだ。 2人とも土手を滑り落ちたが、怜奈が低く張り出した木の幹につかまり、直樹も斜面に引っかかって、水際で止まったという。 感謝と申し訳なさで言葉を失う直樹に、怜奈は言った。自分の傷からはまだ血がにじんでいたのに。 「大丈夫。今度からは気をつけて歩いてね」 研究のことしかなかった直樹の頭から、その日を境に、怜奈の姿が離れなくなった。 退院の日、勇気を出して連絡先を尋ねた。 断られるのが怖くて、命を助けてもらったお礼をしたいだけだと、慌てて付け加えた。 怜奈は長い間、黙って直樹を見ていた。そして、こう尋ねた。 「お礼がしたいの?だったら、私と結婚してくれる?」 直樹は目を見開いた。冗談ではないと分かると、胸が激しく高鳴った。 「……はい」 気づけば、そう答えていた。 こうして、直樹は怜奈の夫になった。 その後、怜奈は芽依を身ごもった。体調が安定せず、医師から無理をせず安静にするよう言われていた。 青白い顔の妻を見て、直樹は悩み抜いた末に、研究センターへの誘いを断った。家庭に入り、家事や妻の世話を一手に引き受けた。 怜奈も、直樹を大切にしてくれた。出張先でプレゼントを買ってきてくれたり、親子で旅行に出かけたり、結婚記念日にサプライズを用意してくれたりした。 自分は愛する人と結ばれた、幸運な男なのだと思っていた。 1か月前、激しい雨が降るあの夜までは。 ずぶぬれの男が、屋敷の玄関に立っていた。ドアを開けた途端、男は崩れるように倒れた。 いつも落ち着いている怜奈が、見たこともないほど取り乱した。すぐに使用人を呼び、男を支えて車に乗せた。 そのとき初めて知った。男は成瀬拓海という、怜奈の初恋の相手だった。 かつて彼女が結婚を持ちかけたのも、拓海に突然別れを告げられ、海外へ去られたからだった。結婚すれば、その失恋を忘れられると思ったのだ。 真相を知った頃、直樹のもとに、研究センターから再び誘いが届いた。 それでも、怜奈は7年間愛してきた女だった。2人には、5歳の娘もいる。 どんな事情で始まった結婚でも、今は妻も娘も自分を大切に思ってくれているはずだ。 そう信じたくて、決められずにいた。 今日、その決断をさせてくれたのも、当の妻と娘だった。 直樹は目を伏せ、涙をこらえた。 「もう、あの2人のために残るつもりはありません」 石田先生はため息をついたが、それ以上は尋ねなかった。 「手続きには7日かかる。済んだら迎えをやる」 電話を切り、SNSを開いた。 一番上に、拓海の投稿が表示された。 【家族♥】 写真には、芽依を真ん中に寄せ合って座る拓海と怜奈が写っていた。3人とも幸せそうに笑っている。 病院を飛び出した2人が真っ先にしたのは、拓海と家族写真を撮ることだったのか。 通知音がして、また投稿が増えた。 【この夢が、ずっと覚めなければいいのに】 直樹は、その言葉をしばらく見つめた。よく知っている妻と娘の笑顔が、頭から離れなかった。 やがて、そっと「いいね」を押した。 今日で終わりだ。もう、この2人にすがるのはやめる。 第3話 入院して3日が過ぎ、事故の傷はだいぶ落ち着いた。 その間も、拓海は毎日SNSを更新した。どの投稿にも、怜奈と芽依が写っていた。 初日は、3人でケーキを作っていた。できあがると、芽依が最初の一口を拓海に食べさせていた。 2日目は郊外でキャンプをし、夜は芽依を間に挟んで寄り添い、テントから星を眺めていた。 3日目は、芽依の絵画教室に2人で付き添っていた。お題は「わたしのパパ」芽依が描いたのは、拓海だった。 退院の日になって、3日間姿を見せなかった怜奈と芽依が、ようやく拓海を連れて現れた。 直樹のまだ癒えない傷を見ると、拓海は申し訳なさそうに笑った。 「直樹、悪い。ここ数日ちょっと立て込んでて、見舞いに来るのが遅くなった。芽依から事故に遭ったって聞いたけど、具合はどう?」 言葉とは裏腹に、その目は直樹の様子を探っていた。 怜奈と芽依も、どこか緊張していた。 記憶が戻っていないか確かめているのだと、直樹には分かった。 「もう退院していいそうです。ただ、まだ何も思い出せなくて。あなたは?」 何も分からないふりを続けると、3人はそろって安堵した。 芽依が自分から拓海の手を握った。 「高瀬さん、私のパパだよ」 退院の書類を書いていた手が止まった。 芽依が拓海に父親になってほしがっていることは、とうに分かっていた。 それでも、実際に娘の口から「パパ」と呼ぶのを聞くと、胸の奥に鋭い痛みが走った。 5年間、大切に育ててきた娘が、何のためらいもなく別の男を父親と呼んでいる。 直樹は、そばで黙っている怜奈に目を向けた。 視線がぶつかった瞬間、いつも冷静な怜奈の目に、珍しく気まずそうな色が浮かんだ。 だが、怜奈はすぐに目をそらし、何も言わなかった。 直樹の口元に、さらに冷ややかな笑みが浮かんだ。 7年連れ添った妻は、娘のうそを黙って認めている。 惨めだった。 胸の痛みを抑え、「そうですか」とだけ答えた。 手続きを終え、全員で車に乗った。 後部座席では、芽依が大好きなアニメの話をしていた。拓海とのやり取りは、まるで本当の親子のようだった。 直樹は助手席で目を閉じ、聞こえないふりをした。 車が止まって初めて、帰宅したのではないと気づいた。そこは遊園地だった。 芽依は待ちきれない様子で拓海の手を引き、車を降りた。 「パパ、早く!遊園地、久しぶり!一緒にゴーカート乗ろう!」 直樹は一瞬動きを止め、苦く笑った。 芽依が3歳の頃は、よく連れてきたものだった。毎回大はしゃぎで直樹の手を引き、あれもこれもと乗りたがった。 その頃は、目を輝かせて見上げてきた。 「パパと遊園地に来るの、大好き!私、世界一幸せ!」 それが、いつからだったか。遊園地に誘っても、こう言うようになった。 「つまんないから、行きたくない」 もう乗り物に飽きてしまったのだと思っていた。 だが、そうではなかった。芽依が飽きたのは遊園地ではなく、一緒に行く父親だったのだ。 第4話 怜奈は2人を追いかけようとして、直樹の顔に残る傷に目を留めた。 事故の瞬間、芽依を守ろうと飛び出した姿がよみがえり、表情を和らげた。 「退院したばかりなんだから、休憩所で待っていて。芽依には私と拓海がついているから」 直樹は、かすかに鼻で笑った。 「分かりました。家族水入らずの邪魔はしませんよ」 思いがけない返事に、怜奈は直樹を見た。いつも優しかった目には、もう何の温かさもなかった。 なぜか胸がざわついた。 怜奈は何か言いかけるように口を開いたが、結局は何も言わず、複雑な表情で直樹をじっと見つめただけだった。 「……あなたが思っているようなことじゃないの」 直樹は危うく笑いそうになった。 芽依のうそを認め、夫と父親の座を拓海に明け渡したのは怜奈自身だ。今さら、仕方がなかったような顔をして、誰に信じろというのか。 「全部怜奈が認めたことだろ」 怜奈は目を見開いた。胸の内に、思いがけない不安がよぎった。 どうしてそんなことを言うのだろう。まさか、記憶が戻ったのか。 問いただそうとしたときには、直樹は何事もなかったように休憩所へ歩き出していた。 思わず追いかけようとしたが、前方から芽依の呼ぶ声がした。 怜奈は直樹の静かな背中を見つめ、気を落ち着けた。 直樹は、自分と芽依をあれほど愛している。もし記憶が戻っていたら、娘がほかの男をパパと呼ぶのを、こんなに落ち着いて見ていられるはずがない。 今のは、聞き間違いだったのだろう。 怜奈はためらいを振り切り、2人を追った。 直樹は休憩所の窓越しに、並んで歩く3人を見ていた。 芽依は左右で拓海と怜奈の手を握り、跳ねるように歩いている。拓海がかがんで、ティッシュで額の汗を拭いてやった。怜奈は、その様子を優しい目で見守っていた。 なんて幸せそうな家族なのだろう。 ふと目を落とすと、薬指に光るものがあった。 7年間、肌身離さずつけていた結婚指輪だった。 これをはめた日、これから始まる結婚生活に、どれほど胸を膨らませただろう。 それが今では、みじめな思いを呼び起こすだけだった。 直樹は指輪を外した。 かつん、と乾いた音がした。 指輪は、ごみ箱の底に落ちた。 第5話 日が暮れかけた頃、ようやく3人が戻ってきた。 午後いっぱい遊んだ芽依は汗だくで、真っ先に休憩所へ駆け込んだ。 アイスクリームの売店を見つけると、目を輝かせ、直樹に指図した。 「高瀬さん、アイス食べたい。早く買ってきて」 そして、小声でつぶやいた。 「今はパパじゃなくてボディーガードなんだから、もうだめって言えないよね」 芽依は難産の末に生まれ、幼い頃から体が弱かった。医師からも、体調の変化に気を配るよう言われていた。 直樹はこの5年間、できる限りのことをしてきた。 夜中も何度となく起きて布団がはだけていないか確かめ、栄養が偏らないよう献立を工夫し、無理のない範囲で運動にも付き合った。 遊び疲れた今、体を冷やすものを食べさせたくはなかった。 以前なら、今はだめだと言い聞かせ、代わりに水を渡して休ませていただろう。 だが今は、額の汗に目をやっただけで、静かに答えた。 「分かりました」 芽依は目を丸くした。 記憶がなくなると、こんなにも変わってしまうのだろうか。 「……本当にいいの?」芽依はこらえきれず、もう一度尋ねた。 直樹はアイスクリームを買って渡した。それが答えだった。 「これからは、何を望まれても止めませんから」 拓海を父親にしたいという願いも。 近づいてきた怜奈が、芽依の手にしたアイスクリームを見て眉をひそめた。 「どうしてアイスなんか食べさせたの?」 「本人が欲しがったので」 怜奈は納得できず、平然とした直樹を見つめた。 以前の直樹なら、こんなふうに汗だくで疲れているときには、食べさせなかったはずだ。 記憶を失っていても、実の娘なのに。無意識に気遣ってしまうことさえ、ないのだろうか。 その様子を見た拓海は、ふっと目を細めた。芽依の額の汗を拭ってやりながら、気遣うように口を開いた。 「怜奈、そろそろ帰ろう。ずっと遊んでいたし、芽依も疲れたんじゃないかな」 芽依も帰りたいとせがんだ。 車に乗ると、よほど疲れていたのか、芽依は隣の拓海にもたれて眠ってしまった。 直樹はミラーに映る、寄り添った「親子」を見た。かすかに口元をゆがめ、窓の外へ目を向けた。 そのとき、制御を失った大型トラックが、こちらへ突っ込んできた。 運転手がとっさにハンドルを切った。 激しい衝突音が響き、車が電柱にぶつかった。前部が大きくつぶれていた。 「パパ、どうしたの!」 助手席の直樹は、開いたエアバッグに押し戻された。頭がくらくらして、意識がはっきりしない。それでも、芽依の泣き声に反応し、必死に姿を探した。 どうにか振り返ると、芽依は拓海の手を握っていた。ガラス片で切れた掌を、心配そうに見つめている。 怜奈の袖を引き、今にも泣き出しそうな声で訴えた。 「ママ、パパの手から血が出てる!早く病院に連れていって!」 拓海も青ざめ、傷ついた手を押さえていた。 怜奈は前席の直樹に目を向け、ためらった。 「でも……」 「高瀬さんはエアバッグがあったから平気だよ!パパは絵を描くんだよ。手にけがしちゃだめなの!」 芽依は言い終わるのも待たず、怜奈と拓海を引っ張って車を降りた。 「怜奈、俺の手……絵が描けなくなったら、どうしよう……」 拓海の震える声を聞き、怜奈は迷いを振り切った。 「直樹、救助の人が来るまで待っていて」 そう言い残し、拓海と芽依を連れてタクシーを拾った。 直樹は助手席に挟まれ、身動きが取れなかった。ただ目で、去っていく3人を追った。 妻と娘は拓海を真ん中にして、かばうように歩いていった。一度も振り返らなかった。 自分が芽依を助けたときは、命の危険など考えもしなかった。 それなのに2人は、車に閉じ込められた自分を助けようともしない。 直樹の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。 妻と娘への最後の未練が、そこで途切れた。 第6話 車から救出されたとき、救助隊員に尋ねられた。 「ご家族に連絡しましょうか?」 直樹は少し黙ってから、首を横に振った。 「いいえ。家族はいません」 命の危険にさらされた自分を置き去りにする妻と娘を、もう家族とは呼べなかった。 直樹はめまいをこらえ、1人で病院へ向かった。 幸い、検査では大きな異常はなかった。薬を飲んで、数日安静にしていればよいという。 薬を受け取り、処置室の前を通りかかった。 中では、拓海が傷の手当てを受けていた。 血がわずかににじむ程度の浅い傷だった。それでも、そばの母娘は気が気でない様子だった。 芽依は医師の手元にあるガーゼを食い入るように見つめ、顔をしかめた。 「先生、パパの手、跡が残っちゃう?」 怜奈も口を挟んだ。 「絵を描く仕事をしているんです。どうか、丁寧にお願いします」 医師は笑みを浮かべた。 「奥さんも娘さんも、ずいぶん心配なさっているんですね。大丈夫ですよ。この程度なら、傷跡もほとんど残らないでしょう」 直樹はドアの外に立ったまま目を伏せ、皮肉な笑いが込み上げるのをこらえた。 本当に、よくできた「妻」と「娘」だ。 視線を戻し、立ち去ろうとした。 「直樹?」 「た、高瀬さん?」 背後で、驚いた声が重なった。 怜奈が真っ先に口を開いた。 「どうやって来たの?検査は受けた?大丈夫だった?」 その目の奥に、わずかな後ろめたさがにじんでいた。 「ご心配ありがとうございます。俺は大丈夫です、奥様」 他人行儀な呼び方に、怜奈は凍りついた。 今の直樹は、藤崎家に雇われたボディーガードだ。分かってはいた。それでも、実際に距離を置かれると、胸の内がひどくざわついた。 何か言いたかった。だが、直樹の冷静な顔を見ていると、喉が詰まって言葉が出てこなかった。 そこへ、電話がかかってきた。 会社で急用ができ、怜奈は先に立ち去った。残った3人には、自分たちで帰るよう言い残した。 屋敷へ戻ると、芽依は真っ先に拓海を2階へ連れていった。 直樹は、かつて自分の寝室だった部屋に、拓海が入っていくのを見ていた。 拓海を休ませると、芽依は駆け下りてきて、1階の小さな寝室を指した。 「高瀬さんのお部屋はここだよ」 直樹は静かに娘を見た。 「承知しました、お嬢様」 なぜか芽依の顔が変わった。むっとして直樹をにらむと、走り去った。 直樹は気にせず、ドアを開けた。 たった3日留守にしただけで、服も日用品も、すべてここへ移されていた。 ずいぶん念入りな芝居だ。 それから数日、直樹はボディーガードとしての役目を果たした。 遊園地へ行った夜、芽依が高熱を出したときも、車で病院へ送っただけだった。以前のように、一睡もせず付き添うことはなかった。 怜奈が会食を終えて深夜に帰宅しても、無事を確かめるだけだった。酔った妻のために飲み物を用意し、世話を焼くこともやめた。 …… そうして、芽依の誕生日が来た。 毎年、玄関で芽依と手をつなぎ、客を迎えるのは直樹だった。 だが今年は、朝から芽依が拓海の手を引き、待ちきれない様子で玄関へ向かっていた。 直樹の前でわざわざ立ち止まり、もっともらしく言った。 「高瀬さん、私はパパとお友達を迎えに行くから、キッチンでお料理を手伝ってね。リビングには来なくていいよ」 直樹は、口元に皮肉な笑みを浮かべた。 友達に直樹を見られ、どうして父親が違うのかと尋ねられるのが怖いのだ。目の前でそんなことを言われれば、怜奈と芽依のうそがばれてしまう。 7日間だけでも、拓海を完全に父親にするために、ずいぶん考えたものだった。 だが、もうすぐだ。本当に、この家の父親でいるのをやめる。 直樹は目を伏せ、小さく答えた。 「分かりました」 拓海の目に、勝ち誇った色が浮かんだ。だが口では、困ったように言った。 「芽依、でも、お父さ……」 芽依が緊張したのを見ると、拓海は薄く笑い、言い直した。 「高瀬さんは5年間、君を守ってくれたんだろ。誕生日会にも呼ばないなんて、かわいそうじゃないか」 芽依は戸惑い、少し迷った。 答える前に、直樹が静かに口を開いた。 「気にしないでください。リビングには行きませんから」 自分を大切に思わない娘のために、もう傷つく必要はない。 直樹は芽依に目を向けることなく、キッチンへ入った。 しばらくすると、リビングから子どもたちの拍手が聞こえた。芽依のはしゃぐ声も響いた。 「ありがとう、パパ!すっごく上手!今までもらったプレゼントで一番うれしい!」 一緒に調理をしている使用人たちが、時折、気の毒そうな目を直樹に向けた。 すべて気づかないふりをし、黙々と下ごしらえを手伝った。 だが次の瞬間、リビングから悲鳴と泣き声が上がった。 何が起きたのか分かる前に、小さな体がキッチンへ飛び込んできた。不意を突かれた直樹は、まだ痛む体をよろめかせた。 芽依が顔を真っ赤にして、怒鳴った。 「どうしてパパの飲み物にマンゴージュースを入れたの!」 第7話 腰が作業台の角にぶつかった。鋭い痛みが走り、額に冷や汗がにじんだ。 直樹はどうにか体を起こした。 「俺は入れていません」 何度否定しても、芽依は聞かなかった。他のボディーガードたちに言いつけ、直樹をリビングまで連れていかせた。 拓海は全身に発疹が出て、顔色を失っていた。ソファに横たわり、怜奈に肩を支えられていた。 「直樹、こんなひどいことをする人だったなんて」 怜奈は怒りを抑えた声で言った。 「怜奈……直樹も、わざとじゃなかったのかもしれない」 拓海が力なく言った。 弱りきった様子を見て、芽依は涙ぐんだ。 「パパ、かばわなくていいよ!ずっとキッチンにいたんだもん、絶対この人が入れたんだよ。パパを苦しめたかったんだ!」 直樹はあきれ果てた。 拓海に何かあれば、この2人は何もかも直樹のせいにする。 だが、忘れているのだろうか。今の自分は、ただのボディーガードだ。この家の「主人」である拓海に、何の恨みがあるというのだ。 腰がまだ痛んだ。直樹は、もう一度繰り返した。 「その人には、何もしていません」 「うそつき!パパがこんなに苦しんでるのに、まだうそをつくの?ママ、悪いことをしたんだから、お仕置きしなきゃ!」 芽依が怒鳴った。 怜奈は拳を握りしめ、複雑な顔で直樹を見た。だが、支えている拓海の呼吸が弱々しくなると、目を閉じ、低く答えた。 「……そうね」 そして、拓海に肩を貸し、病院へ急いだ。 「高瀬さん、悪いことをしたら罰を受けるんでしょ。自分でそう教えたよね」 芽依が合図すると、2人のボディーガードが直樹の両腕を押さえた。 続いて、使用人に牛乳を持ってこさせた。 直樹は、信じられない思いで娘を見た。 自分には、重い牛乳アレルギーがある。芽依は知っているはずだった。 必死に抵抗したが、両側から押さえつけられ、振りほどけなかった。 無理やり牛乳を流し込まれると、息が苦しくなった。膝が折れ、その場に崩れ落ちた。 かすむ視界の中で、娘の顔だけは見えた。芽依は冷めた目で見下ろすばかりで、動こうともしなかった。 実の娘が、別の男のために、自分を死なせかねないものを飲ませた。 誰よりも深く自分を傷つけたのが、守り続けてきた娘だったとは。 笑うしかなかった。 もう耐えられなかった。目の前が暗くなり、すべての感覚が途切れた。 次に目覚めたときには、病院のベッドにいた。 怜奈がすぐに気づき、こわばった顔の芽依の背中を押した。 「高瀬さんに謝りなさい」 「……ごめんなさい」 芽依の声は、消え入りそうだった。 直樹は冷ややかに笑った。 片方は罰を与えることを認め、もう片方は実際に命を危険にさらした。 今さら、何を取り繕おうというのか。 「芽依のお仕置きが、こんなことだとは思わなかったの。でも、すぐ病院に運んだから、もう心配ないって。芽依も、拓海の代わりに仕返しをして、あなたに反省してほしかっただけなのよ。そもそも、拓海の飲み物にマンゴージュースなんて入れなければ……」 「俺が間違っていました」 直樹は、静かに遮った。 怜奈が言葉を止めた。芽依も、不思議そうに顔を上げた。 直樹はもう一度繰り返した。 「もう、よく分かりました」 間違いだったのだ。この結婚を始めたことが。 自分を愛してもいない娘に、すべてを注いできたことが。 2人の顔から、緊張が薄れた。 芽依が小さくつぶやいた。 「もっと早く謝れば、こんなことにならなかったのに」 「分かってくれたならいいの。今、具合は……」 怜奈の言葉を、着信音が遮った。 電話の相手が何かを告げると、怜奈の顔に喜びが広がった。 「分かった。すぐ行くわ」 電話を切り、芽依に向き直った。 「パパが目を覚ましたって」 芽依は喜んで飛び上がり、すぐに怜奈の手を引いた。 「早く行こう!パパ、まだつらいんだから。私たちがいなかったら寂しいよ」 2人の足音が遠ざかっていった。直樹はベッドに横たわったまま、かすかに笑った。 そのとき、スマホにメッセージが届いた。 【直樹くん、迎えの車が着いたぞ】 この数日で初めて、直樹の顔に心からの笑みが浮かんだ。 1人で退院手続きを済ませ、下へ向かおうとしたとき、階段の踊り場に見覚えのある2人がいた。 怜奈がしゃがみ、真剣な顔で芽依に言い聞かせていた。 「拓海お兄ちゃんにパパになってもらうのは、今日で最後よ。今夜、本当のことを全部パパに話すからね」 芽依は指をいじりながら、不承不承うなずいた。 「うん。7日間もパパになってくれて、うれしかったし……」 ふと不安そうな顔になり、怜奈の手をつかんだ。 「でもママ、今日、パパに牛乳を飲ませちゃったでしょ。全部分かったら、怒るかな?」 怜奈は少し黙り、なだめるように答えた。 「大丈夫よ。芽依は、パパに反省してほしかっただけでしょう。大切な娘に、本気で怒ったりしないわ」 芽依はようやく安心した。 直樹は2人を見ていたが、心は少しも動かなかった。 確かに、もう怒りはしない。 今日から、芽依の父親でも、怜奈の夫でもいるつもりはないからだ。 これ以上、2人に人生を縛られることはない。 直樹は目をそらし、タクシーで一度屋敷へ戻った。 必要な荷物をまとめ、迎えの車に乗り込んだ。 車が動き出すと、直樹は7年間暮らした家に最後の目を向けた。 怜奈、芽依。君たちが望んだ夫と父親の席は、空けておく。 もう、会うことはない。

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